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Lifehacks

この男は16歳で高校を中退し勉強の鬼と化した 30年後男が辿り着いた場所に心が揺り動かされた

孫正義(そん まさよし)さんといえば、日本ソフトバンクの創業者であり、総資産が2兆円を超える日本一の大富豪です。

しかしそれだけの有名人にもかかわらず、その半生、たどってきた道筋を知っている人は多くはないのではないでしょうか?

今回は、そんな孫正義さんの知られざる7つの秘密に迫ります。

1. 生まれ

孫正義少年は1957年、佐賀県鳥栖市の集落で、安本家の次男として生まれました。在日韓国人の3世で、一家は非常に貧しかったと言います。

父親の安本三憲は、密造酒や養豚、金貸しなどで生計を立てていたそうです。住んでいた家の住所は「無番地」と呼ばれるもので、整備がされておらず人が住むことが許されているのかすら怪しい場所でした。

ちなみに安本という苗字は、日本で住むために使う通名で、孫正義少年も子供のころは「安本正義」と名乗っていました。

その後、父の三憲がパチンコ屋を始めたことで、生活は以前に比べて豊かになりました。しかし幼少期の貧しかった記憶が、孫少年のハングリー精神を培ったのかもしれません。

 

2. 剣道

「僕は子供の頃から剣道をやっていたけど、すっと構えた時に相手の強さが分かる」…これは孫さん自身の言葉です。

貧しかったとは言え非常に活発な少年で、サッカーや野球、剣道などのスポーツをしたり、友達と一緒に夜まで走り回って遊んで、というような生活を過ごしていた孫少年。

特に剣道には熱中し、中学校と高校の部活動では剣道部として活動していました。剣道二段の腕前だそうです。

剣道経験はのちに、交渉の席などで、目つきや言動から、相手がどれくらいのやり手なのかを瞬時に判断する際に活かされるようになったと言います。

 

3. 坂本龍馬との出会い

15歳のとき、孫少年の人生を決定づける瞬間が訪れます。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み、坂本龍馬の人生に深く感銘を受けた孫少年、「人生は短い。若いうちに行動しなければ、後悔するのではないか?」 「人生は限られている。だからこそ、思い切り生きたい」…そんな思いを抱くようになり、まるで坂本龍馬が脱藩したかのように、高校を半年で中退してアメリカ、サンフランシスコの英語学校に入学するのです。周囲からは大反対を受けていました。

 

4. アメリカ留学時代

アメリカ留学時代、孫さんは自分自身で「世界で一番勉強した。間違いなく世界一勉強した」と言うほど、一心不乱で勉学に明け暮れていました。

食事をとるときも、湯船に浸かっていても教科書から目を離しませんでした。運転する時でさえ勉強したいと思い、テープに講義を録音してヘッドホンで聴いていました。信号待ちになるたびに教科書を開いては、青になっても気づかずに後ろからクラクションを鳴らされる…そんな勉強漬けの生活を送っていたのです。

 

5. 一日五分発明

大学卒業後は日本に帰るつもりでいた孫さんでしたが、日本の企業に就職するつもりはありませんでした。起業しようと考えていたためです。

スムーズに起業するためには、軍資金が不可欠です。学生時代、どうやってその資金を貯めようか孫さんは頭を悩ませていました。

他の学生のようにハンバーガーショップでアルバイトをしたくはありませんでした。時間に対する対価があまりにも低い上、その時間も勉強に注ぎ込みたいと考えていたためです。

一日五分だけで、どうにかお金を稼ぐ方法はないか…そう考えた末に思いついたのが、「特許を取る」というアイデアでした。

一日五分だけ時間を割いて、毎日毎日、「アイデアバンク」と呼ばれるノートに発明をコツコツと書き記していった孫さん。最終的に、そのアイデアは250個以上にもなっていたそうです。

「これを一年間やったおかげで、大きな自信につながった」 …孫さんはのちにそう振り返っています。

 

6. シャープへ売る

最終的にその250個のアイデアの中から、「音声付き電子翻訳機」で勝負すると決めた孫さん。これは電卓のように、日本語で「駅マデノ行キ方を教エテクダサイ」 とキーボードで入力すると、英語やフランス語に同時翻訳され、声になって出るというシステムです。

しかし一人だけで設計からプログラムまでこなすのは不可能です。そこで孫さんはアメリカの学内で、専門家たちを集めてチームを結成することにします。プロジェクトへ参加してもらうための交渉は難航しましたが、試作機ができた時点で日本の会社に売り込み、その契約金を成功報酬として支払うという条件のもと、さまざまなプロフェッショナルを集めることに成功。

日本に帰国し、売り込んだ先はシャープでした。交渉は難航しますが、最終的に当時の専務が孫さんの熱意を大変に気に入り、契約をしてくれるのです。

こうして孫さんは学生にして、後のソフトバンクを起業するための資金、1億数千万円を手にしたと言われています。

 

7. ソフトバンク起業

日本とアメリカを行き来するようになった孫さんは、日本で人気が下火になっていたインベーダーゲームに目をつけます。

インベーダーゲーム機をたった5万円で20台も買い取り、アメリカへ空輸したのです。 飛行機での運送代は、1台7万円ほど。そのゲーム機を、収入折半を条件に、あちこちのレストランと交渉して設置していったのです。このようにして日本から350台ものインベーダー機をアメリカに持ち込み、半年間で1億円を超える儲けをあげたというのだから驚きです。この時もまだ学生だった孫さん。学生にして、2億円以上も稼いでしまったのです。

アメリカの大学を卒業した後は故郷の福岡県に戻り、「始めたらその事業以外のことには手を出さない」という信念のもと、何をすべきかを徹底的に考え抜いたそうです。何百もの事業アイデアの中から選び抜き、 1年半後の1986年9月に、コンピュータソフトの卸会社「日本ソフトバンク」を設立。

1990年には社名を「ソフトバンク」に改名し、 「情報インフラのプロバイダー」の名のもとに、日本の枠には収まらない世界的な快進撃を続けていることは、皆さんご存知の通りです。

 

8. 未来へ

事業を大成功させた孫さんは、若い人たちによくこんなことを言っています。

「人生は一回きりなのだから、若い時(学生時代)に、自分が登りたい山を決めてほしい」と。なぜなら、「登りたい山を決める。これで人生の半分が決まる」からです。

そして、志を共有する仲間を見つけて欲しいとも言っています。

「一人で登る山も素晴らしいが、一緒に登る山はさらに大きくて楽しい」…そう信じているからです。

 

いかがでしたか?

大成する人間のマインドセットのようなものを垣間見たような気がします。これからも孫さんの快進撃は続いていくに違いありません。

 

 
プレビュー画像:  / © Twitter/ SATO_Haruka1